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描き終えたものを眺めると、絵を描いているときに気付いていたこと、考えさせられていたことなどを思い出します。そんなことを書いています。

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13年が経った

IMG/13年が経った
画業13年目を迎えました。 不思議と自分にとっての画家像は初めからずっと変わりません。なぜだかこのような想像をしていて、この世に存在もしていない僕の中だけの画家像ですが、気づいたときにはその人ならどうするかを想像してその通りに動いてきています。絵を描きだしたことで自分の未来が開けたと言っても過言ではありません。ふと現実に目を向ければこの道は今も険しく暗いトンネルの中にいるようです。絵については僕と言っているこの意識が持つ性質を鮮明に明らかにさせたい。音楽では断念しましたが、絵なら届くという想いは変わっていません。

想いでもないもの

人によって様々な感想を抱かせる作品は、様々な心境のようなものを持ちながら制作されたものだろうから、制作する際の心境なのか環境(感情は論外、ゼロで制作)をシンプルに、ほぼ何も無いのと同じくらいに研ぎ澄ませていけば、ひとりの鑑賞者の抱かれる感想はそれは皆平等に感じるということに繋がり、共有度が増す。
何も無いという作品において自身を見つめることへと感想が進むならば、それがたったひとつの「自分を観る」というだけの感想である。
しかし鑑賞者にとって、これは寂しいと感じられる方が、その寂しいという感想を他者へ共有しようとしたとき広がりは起きない。そんな行為を呼び起こさせないように、作品自体の完全性、それ以前に作者自身の完全性が必要となる。
作者自身の完全性とは、線を引いたとき、色を置いたときに感じるそれである。それが全ての線、全ての色に移すのは神業としか言いようがないが、出来るかもしれないという期待がこれからもずっとずっと描かせる。

空洞の中

絵を描くことができる現実。対象を見つめているときに抱く感覚。充満しているのか、何もないのか。こんな不思議な感覚を抱いている自分を見つめて、そして対象も見つめる。そしてあるひとつの認識とわたしの意識が交差を繰り返す中で空洞が生まれる。こんな感覚の中で描いているときに自分と会えるような気がする。

対象を見ていると

やがて空間も閉ざされる。
その中で見る線は質感や物質による立体感でもない、それら生命の様子へと移るが、それがそのものの放つ光を識別させたときの、鮮度、明度の差から線を選んできたが、とうとうそれも透明になる。
結局何も知る必要が無い。
ただ自分は描いている間、風のような光のような、そんなものだと感じている。

彗星

突き上げられた衝動から根拠を見つけるのは難しい。動き出した自分を継続させるのは、それに伴う行動をし続けることでしか継続されない。この衝動と出会えるのは人生で数回だけだろう。

青い空

新しいノートを手にしているような気分の中にここのところ居る。
書き出しの初めの線はまだないが、そう取ると気分が楽になる。
何がどうなのか。巡ってもいないキラキラした中身の無い光だけの理想が、たまに頭を過ぎるとき、現状を酷くさせる。

偏頭痛

昨晩今まで体験したことのない偏頭痛。それと同時に深いネガティブな自分が続々と顔を出した。
当然明日のことなどなにもない。そんなこと百も承知でやってきている。しかしそれらを事細かく思い巡らせていくと、今を消したくなった。しかしそれをしてしまうとまた振り出しに戻る気がした。
同じような環境、家族構成、心境といずれまた、現在と全く同じ心境を味わわなければならないかもと、そんな気がした。激しすぎる痛みの中で。どうすればいいのだろう、と考えても無駄なことは知っている。どうにもしなくても現状を己が創り上げていることも気付いている。
しかし、こんな痛みに紛れ、隠れていた弱い自分が顔を出すとそいつも大切にしたがる自分の癖が蘇る。
しかし、痛みを堪えるのではなく、身体を忘れることを願い行ったとき、単に後頭部には熱さだけがあった。気付けば朝で寝れていた。

静寂

己の道を全うすることが平和へ繋がる。
その道は自身の内面で拓かれた道。
外部(自身以外全て)か ら象られた道(行為)ではなく。
その道の見えない者、じっとしておくこと以外、積極的行動はない。 その道とは、自身以外とは全くかけ離れている行いに感じられるかもしれない。
それはあなたが勝手にそう思っているだけ。その衝動 にどう対抗するか、それが己の道に添えられた、道徳常識……

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比べられない惨めさ

これまで先人達の、「その通り」とされた、幾人かの画家の記述、作品を知り、それが支えとなっていたため、迷うことなく様々に意識を変革させ絵が変化し、その度に「そうだよね」と共感し合える今は亡き人との会話の中でこ れまでやってこれた。
しかしもう完全なる森に足を踏み入れていた。ここ数日二の足を踏んでいた。絵が描けない状況、描いてもそれからどうするのか分からない心境。そして止める。しかし今日そのことを知り、それは当然だと思った。ここから善い悪いが無くなる。雑に描いているのかさえ判断つかない仕事。その作品を人が理解するはずがない。自分でもこれは自分だとは言い切れない日々、作品を重ねていくのだろう。そう思うと、皆やはり凄い。それがこの先ずっと続いていくことを想像してしまうと、ふとしたことで精神を病むのも仕方ないと思う。明日のことを考える術がない。他と比べようがない。あるのはやはり自然だけ。

描いている間の感覚

「見ていないときに、見えているものを観る」見ていないときに見えているものの視線、眼差し、
心を汲む術は空に在り、見ている者への同化への過程に、深層が優位になるにつれ、表層は単純になっていく。